第8回 直方藩の廃藩と長崎街道

更新日 2018年03月01日

福岡本藩の藩主後継事情

直方藩は福岡本藩に2度にわたって後継藩主を送り込み、最後には廃藩となってしまうわけですが、その背景には福岡本藩の藩主後継をめぐる深刻な事情がありました。

藩祖官兵衛から初代長政公、第二代忠之公、第三代光之公と長男が順当に藩主に就任しましたが、光之公の長男綱之は父子の対立により1677年に廃嫡、直方藩主となっていた綱之の弟長寛公が嗣子になり綱政と改名して1688年に第四代藩主となりました。

綱政公は1711年に逝去しましたが、長男吉之はその前年に父に先立って逝去していたため、次男の政則が第五代藩主宣政公となりました。

ところが宣政公は生来病弱で政務をとることができず、正室はいましたが嗣子がいなかったため1714年に直方藩主長清公(綱政公の弟)の一人息子継高公(生年1703年、没年1775年)が養嗣子となり従四位下・筑前守に任じられました。

宣政公は1719年に35歳で隠居して、継高公が福岡藩第六代藩主に就任しました。

直方藩の廃藩

直方藩主長清公は1720年に逝去、本来ならば継高公が直方藩第五代藩主となるところ、前年に福岡藩主となっていたため、跡継ぎを失った直方藩は廃藩、領地は本藩に還付され、藩士は福岡に移転することになりました。

1623年に初代高政公から始まった東蓮寺藩・直方藩は97年で終わりました。

その後も幕末まで福岡藩は後継藩主に恵まれず、第九代から第十代への相続を除いてすべて養子を迎えています。
直方藩廃藩後も秋月藩は存続していましたが、本藩に養子を送ることはありませんでした。初代藩主長興以来、本藩との関係が良好ではなかったためと思われます。

福岡藩第六代藩主継高公

直方惣郭図(直方市教育委員会所蔵)福岡藩主となった継高公は養父の宣政公と異なり頑健で精力的に藩政改革を進めて、飢饉の克服、藩財政の立直しを実現し福岡藩中興の祖と呼ばれた名君になりました。

長政公が着手したが中断されていた堀川の工事を完成させたのも継高公です。

残念ながら後継男子に先立たれて御三卿の一橋家から養子を迎え、官兵衛・長政公の血統は途絶えてしまいました。

筑前名所図会(福岡市博物館所蔵)多賀神社の拝殿の左右に石灯籠があり「筑前国主権少将源継高建立」と刻まれています。権少将は官位、源は黒田家が近江出身の宇多源氏とされることによるものですが、直方藩第五代藩主になるはずだった継高公の直方への思いが感じられます。

長崎街道の経路変更

廃藩後、存亡の危機に立たされた直方の町を救うため、町年寄の庄野仁右衛門が長崎街道の経路変更を福岡藩に願出て許可され、1736年から従来城下町を避けて対岸を通っていた長崎街道が町中を通るようになりました。

多賀神社の宝永の鳥居直方市中央公民館の郷土資料室にある「直方惣郭図」には藩政末期の城下町直方が、19世紀初めの「筑前名所図会」には直方を通る長崎街道が描かれています。

多賀神社の「宝永の鳥居」は長清公が1707年に建立したもので、長崎街道はこの前で直角に曲っていました。
直方の町の姿と地名は黒田家と深いつながりがあります。


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成28年2月1日号)で発表したものです。

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