第7回 黒田長清公の時代

更新日 2018年03月01日

直方藩第四代藩主長清公

1688年、前直方藩主の綱政公が第四代福岡藩主に就任したとき、弟の長清公(生年1667,没年1720)に五万石を分与して直方藩を復活させ、第四代藩主としました。

東蓮寺藩・直方藩では叔父から甥、叔父から甥、兄から弟と、変則的な相続が3回にわたり続いたことになります。

藩主館新設と城下町拡大

復活した直方藩は1万石を加増されて5万石となったため、石高にふさわしい藩主館を直方市体育館西側の現在住宅地になっている台地に新築しました。その地にあった妙見社は移転して多賀神社と改称しました。
新しい館の南側に武家屋敷の町「門前町」ができました。

また門前町の東側に町家を新設して、これが「新町」、従来の町家が「古町」となりました。

西徳寺の山門今日の直方中心市街地は、初代藩主高政公のときに基礎が築かれ、四代長清公のときにほぼ完成したわけです。

藩主館は次回で述べる直方藩廃藩後に解体され、横門は山部の西徳寺の山門に再利用されたと伝えられています。藩政時代を偲ぶ貴重な遺構として直方市の指定文化財です。

名君長清公

従五位下・伊勢守に任じられた長清公は江戸城普請手伝い、江戸神田橋御番などの幕府の軍役を務め、福岡本藩においても病気の兄綱政公を助け藩政に関与しました。

1711年に綱政公が没し、福岡藩の第五代藩主となった宣政公が病弱で藩主の務めを果たせないため、長崎港の防衛にあたる長崎勤番という重要な任務につき、1715年からは幕府の許可を得て本藩の藩主後見を務めました。

藩士の処遇を改善したり、農民の負担軽減など善政を行って名君と呼ばれました。

文人大名長清公

近津神社の長清公の歌碑長清公は行政トップとして有能であっただけではなく、風流の道を愛する文人大名でもあり直方藩内の文芸活動が盛んになりました。

女流俳人諸九尼の夫となった有井浮風は、その才を認められて長清公の書記を務めた後に武士を捨てて俳諧師になりました。

長清公が内ケ磯の鳥野神社の桜や頓野の近津神社の紅葉を詠んだ和歌があります。

近津神社拝殿右側に歌碑があり水田宮司の献上歌と長清公の返歌「千加津川きしのもみぢばこころあらばまた来む秋の色なわすれそ」が刻まれています。

長清公夫妻の墓

長清公は1720年に江戸麻布の藩邸で逝去。54歳でした。法号は「龍湫院殿前勢州刺史瑞林道翔大居士」、天真寺(東京都港区南麻布)と福岡市の崇福寺、高野山に墓があります。廃藩となったため直方にはありません。

長清公の前正室は中津藩主小笠原長勝の息女で1696年に逝去、後正室は前正室の妹で、継高公の生母ですが1706年に逝去しました。二人の正室の墓は天真寺、山部の雲心寺と高野山にあります。 

雲心寺の長清公後正室の墓碑 雲心寺の長清公前正室の墓碑


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成28年1月1日号)で発表したものです。

このページの作成担当・お問い合わせ先

企画経営課 ふるさと情報係

電話番号:0949-25-2236 ファックス:0949-24-3812
このページの内容についてメールで問い合わせする