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第6回 第三代藩主の黒田長寛公、福岡本藩藩主に

更新日 2018年04月25日

城下町の名残り「大曲り」

直方城下町の基本的な姿は初代藩主高政公の時代に築かれたわけですが、最終回で述べるような福岡本藩の事情によって直方藩が廃藩となり、藩士たちも福岡に転居してしまいました。
このため、山口県の萩や長府のような武家屋敷は全く残っていませんが、城下町時代の名残りが殿町の「大曲り」の地名に残されています。

殿町の「大曲り」説明板現在、古町商店街と殿町商店街のアーケードは一直線に貫いていますが、直方市中央公民館2階の郷土資料室に展示されている「直方惣郭図」を見ると、アートスペース谷尾の南側に大きな武家屋敷があり、道は「コ」の字形に屋敷の周囲を迂回しています。

合戦の際に敵方の見通しを悪くするための城下町独特の構造で、「大曲り」と呼ばれ、アーケード西側の道路に面して説明板が設置されています。

第二代藩主之勝公

東蓮寺藩二代藩主となった黒田之勝公(生年1634年、没年1663年)は初代藩主高政公と同じく、従五位下に叙せられ東市正に任ぜられました。

当時の大名は幕府の命により、各種の役務を果たさなければならず、小藩の財政には多大の負担となりました。

既に初代高政公の時にも、大坂城本丸の石垣修復、島原の乱への出兵を務めましたが二代之勝公の時にも、将軍家光の日光東照宮参拝の際の江戸市中警固、後の元禄時代に浅野内匠頭が刃傷事件を起こした勅使下向の際の接待役などを無事に務めています。

雲心寺の之勝公の墓碑之勝公は1663年、江戸麻布(現在の東京都港区)の藩邸で逝去しました。初代高政公が28歳、二代之勝公が30歳と、東蓮寺藩では二代続けて藩主が若死にしたことになります。

之勝公の墓は高政公と同じく江戸の祥雲寺(現在の東京都渋谷区広尾)、直方山部の雲心寺の他に博多の崇福寺にあります。

法号は「乾徳院殿高峯宗堅大居士」で、死の直前に幕府から殉死禁止令が出されていたため殉死者はいません。

第三代藩主長寛公

之勝公には女子はいましたが跡継ぎとなる男子はなく東蓮寺藩は再び廃藩の危機を迎えましたが高政公から之勝公への相続が前例と認められたためか今回も救われました。

之勝公の兄の福岡藩三代藩主光之公の三男・長寛公(生年1659、没年1711)が東蓮寺藩第三代藩主となることが、四代将軍家綱に認められました。当時わずか5歳でした。

叔父から甥へ、という変則的な相続が続いたわけです。

東蓮寺から直方へ

長寛公治世時代の大きな出来事は、1675年に地名を「東蓮寺」から「直方」に改めたことでした。
直方の地名の由来には諸説ありますが、中国の古典である「易経」から良字の「直」と「方」を取ったとされます。

藩主の若死にが続き、「寺」の入った地名を替えたとも考えられています。直方という地名は黒田家によって定められたことになります。

長寛公、福岡藩四代藩主に

1677年、福岡藩三代藩主光之公は嫡子の綱之を廃嫡し、長寛公を呼び戻して跡継ぎに定めたため、長寛公は綱政と改名しました。

福岡城跡の(伝)潮見櫓と下之橋御門このため直方藩は形式上は福岡藩に吸収、実際には家老の明石助九郎が治めました。

1688年、光之公の隠居により、綱政公が福岡藩四代藩主に就任、従四位下・筑前守に任じられました。


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成26年12月1日号)で発表したものです。

このページの作成担当・お問い合わせ先

企画経営課 ふるさと情報係

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