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第5回 黒田高政公急逝、第二代藩主に黒田之勝公

更新日 2018年03月01日

初代藩主黒田高政公の急逝

前号で説明したとおり、島原の乱は1638年2月の原城落城で終結し、多数の死傷者を出しながらも大きな戦果を挙げた東蓮寺藩主の高政公は翌月東蓮寺に帰着し論功行賞を行いました。

参戦者の戦功を評価して加増し、戦死者の遺族にも家禄の保障や役職への登用を実施しました。

その後の高政公について、「直方旧考」には次のように記述されています。

「幕府から高政公に対して、翌年の春まで休息するようにとの上意が伝えられました。1639年3月に参勤交代のため江戸に到着して、将軍家光に拝謁し、島原の乱での戦功を賞せられました。同年9月に病床に臥して、2ヵ月後の11月に江戸麻布(現在の東京都港区)の屋敷で逝去しました。」

28歳の若さで没して、藩主の座には16年、東蓮寺着任後わずかに4年でした。

雲心寺の高政公の墓碑法号は「雲心院殿前東市令松峰宗丁大禅定門」です。

山部の雲心寺は高政公が建立した寺で初めの名は華当寺でしたが高政公の没後、その法号に因んで雲心寺と改名しました。

高政公の墓は江戸の祥雲寺(現在の東京都渋谷区広尾)、雲心寺の他に博多の崇福寺、京都大徳寺内の龍光院(常時非公開のために参拝不可)の4つの臨済宗の禅寺の他に諸大名の墓所が多い高野山にもあります。

4名の側近若侍の殉死

幕末の長州藩などは現在の法人に近い感覚だったとされますが、戦国の世が終わって間もないこの時代は主君個人への忠誠心が強く家臣が後を追う殉死の風があり、高政公の側近く仕えていた4人の若い侍が切腹しました。
雲心寺・祥雲寺とも死後も高政公の墓を護るかのように4つの墓が並んでいます。

右側奥が「春江紹幻禅定門」(古屋十之丞義清・18歳)、

左側奥が「仁叔宗智禅定門」(村瀬市之丞義成・19歳)、

右手前が「玉英宗璣禅定門」(櫛橋半左衛門光近・24歳)、

左手前が「円室宗通禅定門」(嶋井市太夫長俊・26歳)

藩主に近いほうが若いのは年齢順でなく役職禄高などの序列順のためと思われます。

4人とも前年の島原の乱に出陣しておりその奮戦ぶりは「吉田家伝録」や「直方旧考」の記述によると次のとおりです。

「古屋十之丞と村瀬市之丞は高政公の御側にあって銃弾や投石を防ぎました。嶋井市太夫は敵が夜襲をかけてきたときに負傷し、櫛橋半左衛門と村瀬市之丞は城攻めのときに負傷しました。」

嶋井市太夫の傷は重く有馬温泉で療養していたため到着が遅れて、他の3名より1日後に殉死しました。

櫛橋半左衛門は黒田官兵衛の妻の実家の子孫です。

雲心寺の殉死者の墓碑(左側) 雲心寺の殉死者の墓碑(右側)

黒田之勝公、第二代藩主に

高政公には夫人はいましたが子はなく、若年のため養子の手続きをとっていなかったため、本来ならば東蓮寺藩は廃藩になるところでした。

しかしながら先の島原の乱での活躍が評価され福岡藩主忠之公(高政公の兄)の次男之勝公(生年1634、没年1663)を養子とすることが特例として認められました。

島原の乱で黒田勢の活躍を直接目にした老中松平伊豆守信綱の口添えが大きな力になったと思われます。

こうして叔父から甥へ、という変則的な相続が幕府から許可されたわけですが之勝公は当時わずか7歳でした。


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成26年11月1日号)で発表したものです。

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