第4回 黒田高政公、島原の乱で大活躍

更新日 2018年03月01日

東蓮寺城下町の誕生

第2回で説明した通り、大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させた徳川幕府は諸大名の軍事力を弱めるために「一国一城令」を出して本城以外の出城を禁止しました。

筑前国でも城は福岡城だけで秋月藩五万石、東蓮寺藩四万石の藩主の住居も、城ではなく館・陣屋などと呼ばれましたが、便宜上、以下「城下町」とします。四万石の城下町を築くには長政公の遺言の鷹取古城付近では狭く、昔同名の寺があった東蓮寺村に変更しました。当時は小さい村でしたが、遠賀川と彦山川が合流する交通の要地で当時は陸運よりも水運が中心でしたから賢明な選択でした。

藩主の館(現在の多賀神社の東、鉄道線路の向う側、双林院付近)に続いて武家屋敷(現在の殿町一帯)、商工業者の町屋(現在の古町一帯)が造られました。

すなわち、現在の直方市街地の基本的な姿は今から約400年前の黒田高政公の城下町時代に出来上がったことになります。

藩主に就任したとき高政公は12歳(数え年、以下同じ)とまだ少年であったため福岡に留まりました。

15歳のとき元服して、従五位下に叙せられ東市正に任じられました。四万石の大名相当の資格役職を与えられたわけです。

東市正というのは律令制における官職で、京の東部官設市場を管理する長官を意味しますが(大岡)越前守、(浅野)内匠頭などと同じく名目だけのものです。

なお高政公の法号の中に「前東市令」とありますがこれは直方市山部の雲心寺、東京都渋谷区広尾の祥雲寺とも同一で、臨済宗の高僧が和名ではなく、唐名の東市令をつけたようです。

島原の乱に出陣し大活躍

天草四郎の銅像(南島原市提供)高政公は23歳のとき初めて東蓮寺藩主館に入り本格的に藩主としての務めを始めました。

3年後の1637年から1638年に大坂夏の陣の以後、幕末の動乱が始まるまで唯一の合戦が行われました。「島原の乱」です。

肥前島原と肥後天草の農民とキリシタンが領主の重税と幕府の教徒弾圧に反発して十六歳の少年天草四郎を首領として蜂起したものです。

詳しい経過は省きますが東蓮寺藩は福岡本藩・秋月藩と共に出兵し犠牲を出しながらも大きな手柄を立てました。

高政公が率いて出陣した部隊は約2000人と伝えられていますが、戦闘員の他に輸送人足などの非戦闘員も含まれていると思われます。

敵方の一揆勢には経験を積んだ浪人兵も多く、激戦が続きました。

東蓮寺藩も家老の明石権之丞が戦死し、筆頭家老の吉田壱岐も負傷して死亡、戦死者32人、負傷者156人の損害を出しながら、本丸一番乗りの戦果を挙げました。

直方市史に山部の西徳寺で出陣報告があり、上新入の高蔵寺(現在では鴨生田観音堂のみ残るが、当時は栄えていた)で戦勝祈願をしたことが書かれています。

西徳寺の本堂(出陣の報告) 鴨生田観音堂(戦勝を祈願)


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成26年10月1日号)で発表したものです。

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