第3回 黒田高政公、東蓮寺藩初代藩主に

更新日 2018年03月01日

黒田家の家紋・藤巴紋

橘藤巴紋(小寺家の家紋)黒田家は他の大名家と同様に、数種類の家紋を使い分けていました。

円の中を黒く塗り潰した「黒餅(白餅とも)紋」などがありますが、最も代表的な紋は「藤巴紋」です。

この家紋の由来としては1578年、織田信長に反逆した荒木村重を説得するため有岡城(現在の兵庫県伊丹市)に単身乗り込んだ黒田官兵衛が一年間幽閉されたときに牢内から見えた藤の花房に励まされて、救出の後これを黒田家の家紋と定めたとされています。

西徳寺山門の藤巴紋(黒田家の家紋)感動的な逸話として多くの出版物に掲載されNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれましたが、素朴な疑問として「それまでの家紋は何?」が生まれます。

徳川幕府が編集した「寛政重修諸家譜」に黒田家の家紋について「もと藤乃丸のうちに三橘を用ふ後藤巴にあらたむ」との記述があり、小寺の姓と同時に家紋「橘藤巴紋」も許され、父職隆に続いて官兵衛も用いていたと推測されます。

官兵衛が滅亡後の小寺家の遺児を家臣としたこと、「橘紋」が鷹取城址から発掘された鬼瓦(中央公民館二階郷土資料室に展示)に見られることなどから、恩顧を受けた小寺家の橘を替紋とし、黒田家の家紋は橘を外した「藤巴紋」としたのではないでしょうか。

山部の西徳寺の山門(直方市指定文化財)の軒下に木彫りの「藤巴紋」があり城下町直方の面影が今も残されています。

東蓮寺藩初代藩主黒田高政

鷹取城の橘紋の鬼瓦(黒田家の替紋)1623年、黒田長政は京都で没し遺言で後継者を次のように定めました。

「長男忠之は福岡本藩を継げ。三男長興は秋月に、四男高政は高取に、それぞれ分家して支藩を開け。」

これを受けて、秋月藩五万石と東蓮寺藩四万石が誕生することになりました。

大名が分家を作るのは、何かの事情で本家の跡継ぎが絶えたときに後継者を迎えるためで、徳川将軍家の御三家(尾張、紀伊、水戸家水戸家は後継資格なし)や、御三卿(田安・一橋・清水)がよく知られています。

鷹取城の橘紋の鬼瓦(黒田家の替紋)後の回で出てきますが、東蓮寺藩(のち直方藩)は二度にわたり福岡本藩の藩主を出し、よく務めを果たしましたが自藩の跡継ぎを失ったため廃藩になってしまいました。

秋月藩は幕末まで続き、明治維新後の1876年に旧士族が秋月の乱を起こし鎮圧されました。

黒田高政公(生年1612年、没年1639年。以下、福岡・東蓮寺藩主には尊称として公をつけます)は、藩主就任時まだ十二歳であったため福岡にとどまり、家老の吉田壱岐が現地を視察して鷹取古城の付近ではなく東蓮寺村に藩主館を築きました。

東蓮寺藩主館跡(殿町の双林院)この地に支藩が置かれたのは穀倉地帯の直方平野を抑えることと、当時まだ健在であった隣国の小倉藩主細川忠興(1632年に肥後国へ移封)を意識した、長政公の遺志かと推測されます。

こうして、藩主と約千名の武士が住むという、筑豊地区唯一の直方独自の歴史が始まりました。


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成26年9月1日号)で発表したものです。

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