第2回 鷹取城の歴史

更新日 2018年03月01日

感田付近から見た鷹取山と福智山1600年の関ヶ原合戦の論功行賞で筑前一国五十二万石の国持大名となった黒田官兵衛の長男・長政は現在の福岡市に移り、福岡城を築きました。

福岡城の築城と並行して「筑前六端城」と呼ばれる出城が作られましたが鷹取城もその一つでした。北から南へ若松城(若戸大橋の下)、黒崎城(黒崎駅の北東)、鷹取城、益富城(旧嘉穂郡嘉穂町)、小石原城(旧朝倉郡小石原村)、麻氐良(左右良)城(旧朝倉郡杷木町)でした。幕府天領の日田に近い最後を除き、仲の悪かった豊前細川領との国境に配置されています。隣国との関係が難しかったのが原因ともいわれています。

鷹取城の歴史は古く1046年に大和国から移住してきた長谷川吉武という武士が築いたのが最初とされていますが、前九年の役が起こる直前の平安時代で、戦国時代と異なり城というより砦と呼ぶべきでしょう。

福智山から見た鷹取城址その後、南北朝時代には少弐氏、室町時代には筑紫氏が城主となり、戦国時代には城主毛利鎮実が初めは中国の大内氏、のち豊後の大友氏の配下となりました。現在の筑豊地方は大内・大友の両勢力の激突の場となり、旧若宮町の小金原の合戦など数多くの戦いが行われ悲劇を生みました。

豊臣秀吉の九州平定後は一旦廃城となり、黒田長政によって復活しました。

黒崎城主には井上九郎右衛門、益富城主には後藤又兵衛(1560~1615)、鷹取城主には母里太兵衛(生年1556、没年1615)と、父官兵衛の代からの重臣を任命しました。

母里太兵衛の銅像(光雲神社)母里太兵衛は後藤又兵衛と並ぶ勇猛果敢な武将で、「黒田二十四騎」の中でも群を抜く戦功をあげました。逸話も多く、最も有名なのは主君の使者として福島正則を訪ねた際に、大盃を飲み干して名槍日本号を手に入れたことで「黒田節」にも歌われ、槍と盃を手にした銅像が博多駅前と西公園の光雲神社にあります。

鷹取城に関しては二つの逸話が残されています。

一つは鷹取城主就任時に城の石垣補修を申し出た際に藩主長政から「長く持ちこたえる城ではないから」と却下されて、腹を立ててしまい長政から「太兵衛ならば今のままで大丈夫」と言われて納得しました。

もう一つは参勤交代で江戸に向かう途中で富士山を見て「わが城の後の福智こそが日本一の山じゃ」と言いはったという彼の頑固さを示す逸話です。

母里太兵衛は1606年に長政と仲が悪かった後藤又兵衛が出奔(のち大坂夏の陣で討死)した後の益富城主となりました。

鷹取城は1615年豊臣氏滅亡後の一国一城令によって廃城となりました。

鷹取山麓の永満寺には、太兵衛の屋敷跡(伝)や鉄砲町・桜の馬場などの城下町時代の名残の地名が残っています。


注意事項市の歴史については諸説ありますが、このページの内容は歴史ボランティア直方を語る会「とおれんじ」が調査、研究した成果を市報のおがた(平成26年8月1日号)で発表したものです。

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